杉村敏之-雑記

文章ウェブの制作、承り〼。

素晴らしい夜だったから、ラブレターを書く。

今宵、かねてより敬愛していたグラフィックデザイナーと食事をする機会に恵まれた。

彼の仕事をはじめて知ったのは、四国の松山市が発行していた小冊子だった。
4、5年前のことだろうか。自分好みのフリーペーパー蒐集を秘かな愉しみとしていた当時、渋谷の街で手に取ったその冊子から受けるおおらかさに心を奪われ、紙面にクレジットされていたデザイン会社の名前をなんとなく気に留めていた。その後ひょんなことから自分の勤め先から目と鼻の先に彼が鬻ぐデザイン事務所があることを知り、無意識にその仕事ぶりを追うようになってからというものの、いつか一緒に仕事をし、彼のファンであることを伝えられる日が来ればよいなと思っていた。

そして今日。
宿願が叶い食事をともにし、ファンであることを伝えた。
こんなに素晴らしい夜があるだろうか。

彼の仕事がなぜ好きなのか。自分なりに時間を使って考えてきた。これは彼の仕事に対してだけでなく、好きなものにはどこまでも寛容で馴れ馴れしくなれて、そうでないものにはどこまでも不寛容で愛想のない自分の性分でもある。
この歳になるとある程度自分の琴線に触れるものに共通する「何か」の輪郭がはっきりしてくる。その「何か」は、ぼくの場合、どうやら圧力の高さにあるらしい。文章でも音楽でも芸術でも圧力、とりわけ内圧の高さ、切迫度、つまり、作品が抱えるぎゅうぎゅうぱんぱんさ。作品が作り手の内的世界を形たらしめる器だとしたら、その器そのものの美醜にぼくの求める価値はない。高い内圧が作り手の技術的な制御をはるかに凌駕し、作品の美しさを損っていたとしてもちっとも構わないのだ。その破壊的なぎゅうぎゅうぱんぱんを前に、ただただ無力な自分をさらけだし心地よく身を委ねるのがこの場合、鑑賞者としての正しい姿勢なのだから。

結局のところ、作品を生み落とすまでの過程で、どこまで馬鹿馬鹿しいまでの愚直さを保てるか、己に課した禍々しいまでの厳格なルールを守れるか。これらが作り手のエネルギーとしてどの程度滲み、作品に強さを与えているかに、帰結するのかもしれない。ぼくが毎度受ける彼の仕事への感動は。
注がれたエネルギーの総量に圧倒され、ただただ途方に暮れる。が、彼の凄みはこれだけに留まらない。憧憬とも言える偏愛をこじらす所以は、作品を前に心許ない気持ちにさせられた後、ぼくは決まってポジティブな示唆を彼の作品から受け取るのだ。
おまえもこうでなくてはいけないよ、と。
本当にありがたい話である。