杉村敏之-雑記

文章ウェブの制作、承り〼。

路頭の鶏は自由、宮内の鶏は妖しく口中の鶏は憐れ。

◇路頭の鶏◇
先日のこと。上野の駅から東京国立博物館までの道すがら、恩賜公園の広場で、年の頃なら40前後、軍鶏のトサカのようなリーゼント頭を一様に激しく揺らし、身にまとったのは革製のジャンバーながら微塵も窮屈さを感じさせることなく生き生きと四肢を伸ばしてツイストを踊り散らしていている集団がいかにもアナーキーでオバカで格好よく、思わず彼らの前で足をとめた。
彼らのダンスを統制しているかたわらのばかでかいスピーカーからは、耳慣れないロカビリー音楽なるものが大音量で流れ出していて、その一角だけが大きな時代錯誤に支配され、それが変にほっとする阿呆さ加減で、その磁力は思ったより強くて、いつまでもそこに居たいような気分にさせられた。

◇宮内の鶏◇
路頭の鶏の磁力から逃げ出した先は、「皇室の名宝」展である。この日わざわざ上野まで出張ってきたのはこれを観むとするためだ。
お目当ては展示の目玉のひとつである伊藤若冲の「動植綵絵」30幅であった。実際にそれらを前にして、その怪物的な絵画手腕におおいに舌を巻いた。というのも、その全ての傑作はどれも「デジタル」的な美意識や観念によりなっていて、情報や意味を埋め込まれたそれぞれの線や塗りといった要素の莫大な集積が全体的な効果として絵画に見事にあらわれているのだった。江戸時代にデジタルなんてなんかすげえなーと、宮内の宝を前に感心のため息がこぼれっぱなしであった。
ちなみに、そのなかでも白眉は「老松白鳳図」なるもので、その名のとおり白い鳳凰をモチーフに描かれたそれは、命と差し替えてでもひとたび目にしたいと希求させる恐ろしいほどの妖しさに横溢した一幅であった。

◇口中の鶏◇
その夜。昼間上野で目に灼きつけた美しい鳳凰に想いを馳せつつ夜更かしをしているとにわかに小腹が空いたので、キンビス社の「たべっ子どうぶつ」を台所の菓子棚より自室に運び込みかじっていた。
バターと塩味の素朴さがおいしいあれである。
空腹に任せ機械的に銀袋から口へとビスケットを運ぶ手をおもむろに止めれば、偶然か必然か、その人差し指と親指で挟み持つそれには、「COCK」の四文字が踊っており、本日この日は鶏にゆかりのある実に奇妙な一日であったという思いを巡らし、変な感慨とともに頬張ったその雄鶏をバリバリと口中で噛み砕いた。