杉村敏之-雑記

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チャリ屋の枯れた爺さんとだぶるもの。

家から最寄りの地下鉄の駅までは通勤路で、かつては通学路でもあった。
その路沿いに昔から小さな「三ツ沢サイクリング」というチャリンコ屋があって、子供の時分に愛車のパンクを直してもらったことが幾度かある。簡単な修理みたいなものには、お代を求められたこともなく、子供ながらにどうやってこの爺さんは生計を立てているのだろうかと首をひねった記憶が今も残っている。
「三ツ沢サイクリング」は、通りに面した入り口が4枚のガラスサッシの引き戸になっていて、前を横切る時にはなんとなく姿見代わりに目をやってしまう。
最近は日中でもほとんどカーテンが閉まっていることが多いから、そのガラス戸がちょうどよい鏡になる。
今日、店を過ぎる際、珍しいことにカーテンが全開にされていて目をやると、ガラス越しに中の爺さんと唐突に目があった。
毎日のようにその店の前を往復しているとは言え、その姿を目にするのは実に久しぶりであった。
爺さんは自分が子供の頃、すでに立派な爺さんであったから、今はさらに爺さんである。
爺さん、店と居住エリアを結ぶ少し奥に引っ込んだ上がり框に体をくの字に曲げてつくねんと座っていた。
店の中の雑巾やら商売道具やらは、油と手脂にまみれてテラテラと黒光っているのに、唯一爺さんだけはマットな仕上がりで、風化した塑像を思わせるその枯れぶりの中にほんの少しだけの神々しさというか尊さみたいなものを感じたのは、きっと小さな町の小さな商店というひとところでずっと歴史を重ねてきた彼の由縁と無関係ではなく、例えば手入れの行き届いていない寺院の門脇を固めた朽ちかけの立像の姿に通うものがあった。