杉村敏之-雑記

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1Q84 BOOK3

村上春樹の「1Q84 BOOK3」を週末に買った。
本屋で発売日に本を買うなんて何年ぶりのことだろう。
発売をとても楽しみにしていた。
まだ「BOOK3」をまったくと言っていいほど読み進めてはいないけれど、結論から言えばこの「1Q84」はエンタメ小説と割り切って読むと恐ろしくおもしろかった。
いやー、もー、まじで、やばいね、これ。
今まで村上春樹ってのを自分は史上最悪のクソ作家だと思っていた。
でもそれは間違いだった。
彼は稀代のエンタメ作家だったのだね。
これを読んで激しく納得。
なぁーんだってね。
この人は結局、純文学を書く人じゃなかったのだなって。
それなら納得だって。
オールオーケーだって。
しばしば村上春樹を漏らした「芥川賞」の意義なんてのが話題にのぼるけれど、ぼくは逆に村上春樹をスルーした「芥川賞」はやっぱりすごかったと思う。
今と違って、はるかに硬派だった文壇が、エンタメ小説に賞を贈る「ゆるさ」なんてものを当時持ち合わせていたはずもなく、純文学の良心とか良識というもののあらわれであるその決然とした態度は、今思っても個人的にとても頼もしい。
もともと自分は村上春樹という作家が大の苦手で、その相性の悪さは一種のアレルギーのようなもので、なんとかそれを克服しようと代表作以外も手当たり次第に触手をのばしてみたものの、免疫がつくどころかそのたびに痒み、痛み、果ては軽めの嘔吐感までもよおしてしまう始末でますます苦手が募る一方だった。
自分を取り巻く世界で高い評価を得ているものに対して自分も高い評価を与えたいと希求し、結果失敗、最初は評者である自分の資質を疑ったが、自分かわいさにあまりそれを深掘りするはことなく、果ては評価対象そのものをいつしか激しく憎んでいたという側面はたしかにある。
でもね。
それにしても少なくてもぼくの目にはこれまでの村上春樹はひどかった。それはそれは悲惨なものだった。
まずは、その文章。
彼の文章は表層を上滑りしていく日本語の単純な羅列で、読んでいてひどく退屈。
これは不味い翻訳小説を読んでいる時のあのどうしようもない感覚に似ているのだけれど、彼は日本人で日本の小説家で日本語というフォーマットで原稿を書いているわけだし、読み手の自分が陥るこの感覚は毎度のことながら実に面妖だった。
結局、彼の文章にはなんつーか、「血」みたいなもんがまるで通っていなんだよね。
どう読んでも彼の書き綴る日本語はある種の貧血状態。
そんなもんで読み手であるこちらの肉が踊るはずがないって、そりゃそーだ。
次に、なにひとつその作中で「語りきった」ことがないというその作家としての彼の態度。
これはー、わるいけどー、もー、うんこー。
ぎりぎりの示唆みたいなものを与えてくれるならまだましなほうで、多くは暗示やメタファーでぼやぼやさせて、自分で広げた風呂敷を決して彼は畳まずに作品に<了>と入れてしまう。しかも彼の語りはかなり「思わせぶり」であるにも関わらずだ。
「語りきらない」という物書きとしての不誠実さや無責任さ。
はっきり言って弱虫のオカマです。
いち三文ブロガーがこんな鄙びた場所でキャンキャン言ってても始まらないけれど、やはり眼前の大罪は良心のあるものとして看過できない。
これは大きな大きな罪だと思う。
罪を贖うには、いいものを書け、もしくは筆を折れ。
それくらい「村上春樹」の看板は重い。
とここまで長々と悪口を書き連ねてきたわけだけど。
でも。でもだよ。
この「1Q84」はそこらへん全てがうまいこといってる。
とにかくうまいこといっている。
こいつはすげーことだぜ。
どうしてこんなことになっちまうんだろう。
ちっとも現実との軋みを感じさせない「リアルじゃない」文章とやけに仮託の多い薄っぺらな「語り」、「真理」を力んでどんどん横にスライドしていく感じが、ひっくるめて途方もなく空虚で、ファンタスティック。
これは間違いなくエンターテイメント小説の到達点だ。
天吾も青豆もフカエリも確実にハルキの虚構の中でスーパーリアルに生かされている、と思う。
って、村上春樹を意識しだしてから、はじめてハルキって呼んでみた。
てへへ、なんか照れるけど、素晴らしい読み物をありがとよ、ハルキ。
おかげで夜が楽しいです。
仲良くしよう、シェークハンドだ。